第二次大戦後の


旭町キャンパス形成の歩み

和24(1949)年、官立新潟医科大学を始めとする各学校が母体となり新潟大学が発足しました。官立新潟高等学校の校舎に理学部が入り、グラウンドに新たに建設した木造校舎に人文学部が入りました。教育学部は県立師範学校の施設を受け継ぎ、寄宿舎などを改造し、対応しました。新潟県は、県立学校の移管の他にも、招魂社跡地を国から購入し、大学本部を建設した上で、改めて国に寄付をしました。新潟県は、新潟大学開設のための費用の大部分を負担し、その後も数年間寄付を続けました。公設国営が続いたのです。

卒業生と地域の支援により
新築なった附属病院外来棟(昭和31年)

 昭和26年、医学部附属病院の木造外来棟が火災のため全焼。これに対して、医学部学士会が中心になり、地元メディアも「県民の大学を復興せよ」と呼びかけ、一般市民も寄付に応じました。新潟市や新潟県や県内市町村も多額の寄付に応じ、これを受けて、国が残りの費用を負担し、昭和31 年に、現在の鉄筋コンクリート造りの外来棟が完成しました。漸く、国が直接的に地方国立大学の建設資金を負担し始めたという意味で、ひとつの転換期といえるでしょう。日本は高度成長の時代を迎えようとしていました。

外来棟及び後方の図書館を除き、キャンパスの大部分が明治・大正以来の木造建築でした。(昭和31年)

武藤 輝一

新潟医科大学病院外来診療棟の火災・再建と現在の新潟大学病院の新築

武藤 輝一

新潟大学元学長
新潟医科大学 昭和29年卒

 私は官立新潟医科大学の最後の卒業生です。昭和26年11月、医大病院外来診療棟が全焼しました。すぐ、医大学士会が主導し、復興協議会ができ、地元で再建費用の1/4(県・市・市町村で70%、市民寄付で10%、医大学士会員ほか、医大職員・病院職員・学生・看護婦等及び医師会の寄付で20%)を集め得た結果、国から残り3/4を支出いただき、昭和29年末に新外来棟が完工しました。国から再建費を頂くため、中山栄之助病院長はじめ数 名の教授の方々が、学生代表として1学年上の渋谷昭徳氏と私を従えて、上京。文部省と県選出の国会議員に再建を陳情しました。現在の大学病院新病棟第1期工事は、私が学長の最終年(平成9年度)に国から予算をつけていただきました。新病棟第2期工事、新中央診療棟工事が終わり、現在、新外来診療棟の新築工事が始まり、時代の流れに感慨深いものがあります。

卒業生の篤志寄付は続く

 (財)協和会は、昭和26年に学校町に職員宿舎用の土地と建物を購入し寄付するなど、度々、大学に寄付をしました。
 医学部学士会は、昭和60年に創立75周年を記念し、有壬記念館を現在地に建設し、大学に寄付しました。様々な催しに活用されています。今年、医学部は、医専開設後100周年を迎えます。

野村 修一

歯学部の桜の木は残った

野村 修一

新潟大学大学院医歯学総合研究科・包括歯科補綴学分野教授
歯学部 昭和48年卒

「歯学部の桜」は、新潟市で最も早く開花する桜として、多くの市民の皆様に愛されてきました。また、歯学部同窓生にとっては、胸躍る入学を祝ってくれているかのように満開となる桜はマスコットのような存在でもあります。不思議なことに、この桜がいつ植えられたかはあまり知られていません。昭和48年に現在の位置に歯学部と建物が完成した折に、学校町通りに面した石垣の上に空き地があり、子供達が遊んで落ちたりしては危険と桜とつつじの苗木が植えられたと、石岡靖名誉教授から伺いました。何本かの苗木は抜き取られてしまったものの、県庁(現市役所)前の4本は残って、その後立派な大木に成長しました。平成17年に4本の桜木は学校町側に移植されましたが、これまでと変わらない見事な満開の花を楽しむことができます。

左図

歯学部脇にある桜は、新潟市で最も早く開花する桜として市民に親しまれています。国道の拡張工事に伴い、平成17年に移植されましたが、元々は、昭和48年に植樹されたものです。

もしも 新潟大学が旭町地区で整備統合されていたなら

 1960年代に、旭町地区の整備や蛸足状態にあった学部統合問題が議論されるや、県内各市が受入れ候補地に名乗りを上げ、折しも大学紛争の時期に重なったことで、多いに紛糾しました。最終的に、理・教育・人文学部と教養部が五十嵐地区に移り、その移転費用は全て国費で賄われました。社 会状況は、地域が出資する大学という意識も変えつつありました。
 旭町地区での整備統合は、様々な理由で、早々に検討の対象外とされ、当時の各種公共施設の郊外移転の風潮のなかで、移転がもたらす中心市街地への影響や学生への影響が議論された形跡は殆どありませんでした。多くの学生が郊外に去った1982年以降の旭町地区は、医科系学生だけの静かなキャンパスになり、古町界隈にも若者の声が少なくなりました。教職員学生あわせて1万人を超える総合大学がもたらす様々な波及効果も郊外移転してしまっていたのかもしれません。
 現在の旭町メディカルキャンパスや中心市街は137年の歴史を経た現実の姿です。しかし、文化を期待し、最高学府を誘致した明治大正時代のように、もし、新潟大学の整備統合が旭町地区周辺で実現していたなら、旭町キャンパスや新潟市の中心街の現在の様子はどのようになったでしょうか。「歴史にもしもはない」とは言い尽くされた言葉ですが、想像してみるのも楽しいものです。大学の都心回帰が現象化する中で、それは、これからの新潟大学や新潟市の在り方にも関係することでしょう。

謝辞

新潟大神宮、新潟市歴史文化課、新潟市歴史博物館、新潟市立図書館、新潟県立図書館、新潟大学財務部による資料提供に感謝します。
【出典】新潟大学25周年史、新潟大学医学部50年史、同75周年史、新潟医学専門学校一覧、新潟医科大学一覧、新潟医科大学台帳、新潟大学一覧、新潟大学 文書、新潟市役所文書、新潟市史通史編、同資料編、新潟歴史双書、学士会会報、新潟医専卒業アルバム、新潟大学全学同窓会HP 全学同窓会写真館