官立新潟医学専門学校が設立

 明治36年に政府が「専門学校令」を公布すると、世論は官立医学専門学校の誘致に動き、新潟市は民有地677坪のほか市有保安林など7000坪を県に寄付。県はこれとあわせ合計17,100坪を国に寄付。市は、附属病院として、市立新潟病院の施設や敷地も貸与(設備は寄付)しました。(左図ピンク部分)更に、県と市は、施設の建設費用の全てを賄える資金も国に寄付しました。市は県の約半分を負担。県や市を「公」と表現すれば、「公設国営」と言えるでしょう。医専の誘致に要した費用は、新潟市の分だけでも、市の経常歳出の一年分をはるかに超える額に及び、当時6万人余りの新潟市民に大きな負担を強い、昭和初期の財政危機の一因になりました。しかし、同校は、地域医療、医学教育の中心として、市民の期待に十分に応えました。

左図

新潟市築港設計図(大正初期)より一部改変。医専の敷地をピンクで表示。下方のグラウンド部分は大正3年に県から医専に移譲。オレンジの県立師範学校の北西付近は、新潟市の最も標高のある土地ですが、水道配水地(現在の日本海タワー、南山配水場)ができ、都市機能が整備されつつあります。挿入写真は医専の本館正面(大正3年)。昭和50年に本館は取り壊されましたが、その他は現存。平成17年に国の登録有形文化財に指定されています。

官立新潟高等学校が設立

 大正5年に政府が高等学校の増設を決めたことを受け、新潟市は市有地2686坪を含め敷地(下図の薄紫部分)の全部にあたる2万47坪や多額の建設費を国に寄付。県もそれに倍する寄付をし、医専の時と同様、「公設国営」での官立高等学校の誘致を果しました。大正11年に新校舎が竣工。新潟県内からも多数の入学者があり、地域の高等教育に大きく貢献し、旭町地区に新しい文化の拠点が加わりました。官立新潟高等学校は、昭和24年に発足する理学部や人文学部の母体です。

右図

大正11年「新潟医科大学一覧」より一部改変。右上の「大学用地」とある部分(黄緑表示)は、大正10年に県から寄付を受けました。間の道路部分はその後敷地化。更に、西側の黄緑の大部分が、医大昇格のため新潟市と新潟県から寄付され、順次、校舎が増設されました。

官立新潟医科大学に昇格

 大正7年に政府が「大学令」で帝国大学以外の大学の増設を決めたことを受け、新潟県と新潟市は、拡張のための用地として最終的に1万3,564坪余り(上図の黄緑の大部分)を買収し、国に寄付。建物の建築費用も寄付。これを受けて、大正11年に、新潟医専は他校に先駆けて医科大学への昇格を果たすことができました。この時も公設国営での昇格といえます。敷地の寄付は大正13年まで続きました。新潟市の財政規模も大きくなりましたが、それでも年間歳出額の約20%に相当する資金を昇格のために負担しました。

左図

昭和5年「新潟市図」より一部改変。高等学校(薄紫部分)と師範学校(オレンジ部分)の敷地は、それぞれ現在の附属学校と医学部保健学科の敷地に相当します。旧新潟病院の敷地(上図の薄茶部分)は、昭和4年に新潟市に返還。昭和13年に、医大は西側の1,236坪(赤破線囲み部分)をキリスト教団体から購入。同団体から建物と、㈶協和会から改修費用の寄付を受け、学生や職員のための有壬会館として活用しました。挿入写真は新潟高等学校(大正期)。

医学運動会に見る旭町キャンパスと
新潟市民との交流

大正10年頃の医学運動会。数千人の市民や患者が、グラウンドを取り囲み、教授らが繰り広げる仮装の出し物に見入っている。当時の新潟市の人口は約9万、周辺の町村から著しい人口流入がみられました。昭和46年まで、医学生はこの病院前のグラウンドを課外活動でも活用しました。現在、歯学部の校舎が建っています。

栗山 君枝

大学病院と新潟市民をつなぐもの

栗山 君枝

新潟大学医学部附属病院・元看護婦長
新潟医科大学附属厚生女学部 昭和23年卒

 仮装の計画立案は全て卒業したての一年生医師と看護婦の担当でした。準備に時間をかけ、産婦人科では鈴木教授が西郷隆盛、講師がお宮に扮し、私は黒マントに学生帽でした。立場の分け隔てなく、全員が一体となり、仮装を盛り上げました。外科は黒んぼの裸踊りでした。入院中の患者、職員の家族、住民の参加もありました。笑いや熱のこもった応援で満ちあふれた運動会は、夜の慰労会、更には、大学の垣根を越え、市民との語らいで締め括られました。在職中、私はお産のお世話をしましたが、地域に密着した大学病院であったと思います。大学関係者と一緒に運動会を楽しむ市民の存在は、その表れでした。これからも惜しみなく、大学の叡智を地域に提供していただくこと願ってやみません。