旭町・西大畑キャンパス形成の先駆け


明治から大正にかけて

治新政府は、新潟の開港に伴い英語力を重視し、また、明治5年の「学制」の施行に基づき、明治8年に、巨費を投じ、官立新潟英語学校と官立新潟師範学校の洋風の校舎(下図オレンジ部分)を建設し、教育を開始しました。明治10年に、政府の方針変更に伴い、両校は廃校。しかし、施設や生徒は県立新潟学校に引き継がれ、旭町地区に高等教育が根付く嚆矢となりました。当時の新潟町の人口は3万人余り。学校の北側から海岸までは砂丘と松林のみで、付近には、練兵所(陸軍の演習場)がありました。因みに、この土地は砂地ではありません。練兵所建設のため、信濃川上流から運び入れた土といわれています。

左図

明治8年測量の「新潟港実測図」より一部改変。オレンジ改変部分は官立英語学校と師範学校。ピンク改変部分の新潟病院(明治9年に町から県に移管)は、明治21年県の財政難と政府方針により、医学校機能が廃止(校)され、病院機能のみが新潟区に引き継がれました。明治22年の市制施行に伴い、市立新潟病院と改称。明治23年から、池原康造(後に官立新潟医学専門学校の初代校長)が院長を務めました。挿入写真上は官立英語学校(左)と師範学校(右)(明治8年)。写真下は新潟病院(明治11年に改築する前の撮影)

蒲原 宏

新潟の近代西洋医学は医学町で発展した

蒲原 宏

日本医史学会前理事長
新潟医大医学専門部 昭和19年卒

 医学教育の近代化を目ざし、明治6年7月10日、横三番町に私立新潟病院が仮設され、11月21日に医学町に新築移転した。フランス人医学教師ヴィダルが教育にあたった。9年に県立新潟病院、10年に県立新潟病院医学所と改稱、11年改築、翌月明治帝の行幸があった。12年に県立新潟医学校となり病院はその附属となった。その間オランダ人医学教師ヘーデン、フォック、ホルテルマン等が教育にあたった。14年に産婆教場、16年に薬学校が併設され、県内の医療・医事衛生教育の拠点であったが、勅令48号による戝政制度の変革により、21年3月31日に全て癈校。4月19日、新潟区が診療を引き継ぎ、22年の市制施行で市立新潟病院と改稱、官立新潟医学専門学校設立まで存在した。

 明治23年、県立尋常師範学校(旧県立新潟学校)は火災により校舎を失い、前述の練兵所跡地(右図のオレンジ部分)に新たな校舎を建設し、明治26年に移転しました。当時の新潟県の人口は171万人。東京都より多く、日本で最も人口の多い県で、それなりの財政力がありました。

「新潟交友」(明治40年)。医専誘致に伴う新潟市の財政負担の厳しさを風刺した漫画。

池原康造校長と医専一期生(大正2年頃)。人望つとに厚く、逝去後に胸像が建てられました。

右図

明治32年「新潟市実測図」より一部改変。ピンクの新潟病院は、新潟市の医療の中核でした。明治14年に比べ、付近が急速に市街地化しつつあるのが読み取れます。オレンジの尋常師範学校は、現在の医学部保健学科の敷地に相当します。その南東には、招魂社(後の護国神社)が、その東には 新潟県庁がありました。尋常師範学校が移転後の跡地には、新潟市立商業学校(明治36年に県立商業学校)が建設され、官立医学専門学校の誘致に伴い明治44年に移転するまで、同地に留まりました。挿入写真は県立尋常師範学校(明治26年)。