キャンパスが五十嵐地区に移転してきた頃のお話しを理学部数学科20回(1972年)卒の後藤直樹※さんにうかがいました。
当時はまさに五十嵐砂漠でした。松林と砂のキャンパス。新大入口~新大西門のバス通りは当初からありましたが、舗装されていませんでした。また、このバス通りは西門の先100mくらいで行き止まりでした。
在学中にキャンパスが移転したので、市内から五十嵐へ通学していました。交通費の負担は大変でした。バス代は市内~新大西門まで100円でした。現在の経済水準に直すと、片道1000円くらいでしょうか。自転車(1.5~2万円)も学生にとっては高嶺の花でした。大学本部(旭町)から五十嵐への無料バスも運行されましたが、便数は限られていました。ですから多くの学生は越後線を利用しました。
ありません。内野駅から大学への公道は内野1番町から坂を上がって、現在のカフェ・ウエストの脇へ出る道だけでした。松林の中の「けものみち」が近道で、通学路にしていました。夜は手探りで内野駅に向かいますので、砂丘斜面から越後線の線路上に転げ落ちることもありました。
一番困ったのは昼食でした。学生食堂が1つだけなので、3限の開始時間になっても長蛇の列でした。定かではありませんが、ラーメン・うどんは25円程度、カレーライスは40円程度だったと思います。
朝夕2食付の下宿が8,000円〜1万円程度、風呂・トイレ共同で3畳~4畳半のアパートが5,000円程度だったと思います。
※三井情報(株)リスクマネジメント本部長補佐