…学生歌の作詞をされたのは、いつですか。
中村 たしか昭和29年だったと思います。私が女子大を出てすぐ、家へ帰って花嫁修業をせよというので、泣く泣く郷里へ戻っていた頃でした。その年の末ですから、21歳の時です。
…作詞の動機はなんでしたか。
中村 特別の動機といって、何もないのですが、たまたま新潟日報の夕刊に、新潟大学で学生歌を募集しており、その締切が迫っているという小さな記事がのっていまして、今からでも間に合うと知ったら、急に書く気になったのです。
…作詞には、どんな点に苦心なさいましたか。
中村 それが、「みはるかす…」と出はじめたら、意外にスラスラと書けてしまったのです。先ず、越後の山々を、次に日本海を、そして越後平野と、ふるさとの自然を次々に思い浮かべたら、スラスラとおもしろいように文句が浮かんできました。強いていえば最後の「平和」ということばだけが、これはいろんな人がいろんな使い方をするので、どうしたものかと、ちょと迷ったくらいで、あとは、一気に書いたように覚えています。
…自信はおありでしたか。
中村 いえいえ。なにしろ、一晩で、学生歌と応援歌の両方を書いてその夜、速達で送ったのですから、翌日の締切に間に合ったかどうかも心もとなくて、入選などは思いもよりませんでした。それが忘れた頃、大学から呼び出しがあって、びっくりしました。
…入選が決まるまでの経緯は、どんな様子でしたか。
中村 大学から呼び出しがあって、本部へ行きましたら、エライ先生が並んでいて、いろいろ質問なさるんです。きっと20そこそこの娘が「みはるかす」なんて難しいことばを使うので、果して、本当に本人が作ったのかどうか、試してみたのじゃないでしょうか。二番の歌詞の「岩まきて」というのはどういう意味ですか、などというキビシイ尋問がありました。それでも、どうやら、この口答試問に合格して、入選と決まりました。
…入選決定後に大学はどんなことをしましたか。
中村 その年の秋に、賞金を頂きました。学生歌は一位入選で1万円、応援歌の方は二位佳作で千円を合わせて頂戴しました。嬉しかったですね。母にプレゼントをしました。それから翌30年の6月8日に新潟市の公会堂で発表会が行なわれ、その時の記念写真もあります。
…作曲について、ご感想はありませんか。
中村 作曲は高田の小山郁之進先生から、その恩師の箕作秋吉先生に依頼されたように承っています。箕作先生からじきじきにお手紙を頂いて、難しい詩なのでなかなか作曲できなかったというようなことが書いてありました。きっと、ご苦労なさったのでしょう。曲は荘重な感じで、歌うのがちょっと難しい感じもしますね。
…現在詩人としてご活躍ですが、学生歌の作詞から今日まで19年間をふりかえって、なにか一言。
中村 この学生歌が、私の作った詩で世に認められた最初の作というわけです。もともと詩作は好きでしたけれど、やはり本格的に詩作の道に入ってみようと思いたったのは、この学生歌の入選が一つの転機になったように思います。