令和5(2023)年に工学部は前身校の設立から数えて100周年を迎えます。
新潟大学は、昭和24(1949)年に前身の旧医科大学、旧制高校、師範学校、旧専門学校等を統合して設立されました。
工学部も当時は前身校の校舎を引き継いだため、五十嵐地区への移転まで所在地は長岡市にありました。
本特集は、100周年の節目にあたって、前身校を含めた長岡時代の工学部にも焦点を当てます。
工学部同窓会理事長 1977(昭和52)年卒
寺尾 正義
新潟大学工学部は大正12年(1923年)に発足した長岡高等工業学校を前身とし、令和5年に創立100周年を迎えます。この間様々な苦難の時期もありましたが、約3万人もの有為な人材を世の中に輩出してまいりました。こうして100年の節目を迎えることが出来るのも、夫々の時代の先輩諸氏が頑張ってくれたおかげ、と感謝しております。
さて工学部の歴史は大きく、長岡に工学部があった時代(1923年~1979年)と新潟移転以降(1980年~)に分けられると思います。私は長岡時代の最晩期に在学しており、2年時には悠久寮に、3年時からは悠久山通りの中沢町に下宿しておりました。冬には大雪が降って寮や下宿の雪下ろしを行い、夏には長岡の花火も見ることが出来ました。木造校舎で冬は隙間風が冷たかったけれど、今では良い思い出になっています。約3万人の卒業生も長岡と新潟で半分ずつということもあり、工学部の記念式典は新潟市内で、同窓会の総会は長岡市内で行う予定です。
さて、昭和、平成、令和と時代が進む中で、工学部に要求される事柄も変化してきました。高度成長期にはインフラ整備やモノづくりに力点が置かれ、これを推進するための技術者が数多く要望されました。新潟県でも他に先駆けて1982年に上越新幹線が、1985年には関越自動車道が開通しました。そして多くの先輩方が首都圏に行って活躍しました。
しかし平成になりバブルが崩壊し円高が進むと、グローバル化の波が押し寄せて、各企業も海外に数多く進出するようになりました。技術者も海外赴任が多くなり、英語や中国語などの語学や、異文化の中で生活する適応力、コミュニケーション能力を要求されるようになりました。
そしてインターネットが一般に普及すると、工場ではモノとインターネットを繋ぐIoTが盛んになり、無人工場を目指すようになりました。そして最近では地球温暖化を要因とする様々な自然災害が発生し、カーボンニュートラルやSDGsへの対応が大きな課題となっております。
このように世の中は時代によって変わっていきますが、これらの課題を具体的に実現するための人材、すなわち工学を学んだ人材は益々要求が強くなることでしょう。新潟大学工学部に置かれましては、今後も教育に力を尽くしていただき、未来を担う若者を育てていただきますよう期待しています。
大正12(1923)年12月 | 長岡高等工業学校創設 | |
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昭和19(1944)年3月 | 長岡工業専門学校校名改称 | |
昭和24(1949)年5月 | 国立学校設置法公布、新潟大学設置、長岡工業専門学校は新潟大学(工学部)に包括(機械工学科、精密機械工学科、電気工学科、工業化学科) | |
昭和25(1950)年4月 | 精密機械工学科を精密工学科に改称 | |
昭和35(1960)年4月 | 化学工学科設置、工業化学科を応用化学科に改称 | |
昭和38(1963)年4月 | 電子工学科設置 | |
昭和41(1966)年4月 | 大学院工学研究科設置 | |
昭和42(1967)年4月 | 土木工学科設置 | |
昭和52(1977)年4月 | 情報工学科設置 | |
昭和54(1979)年5月 | 長岡市から新潟市五十嵐2の町に移転(第1次移転)(電気工学科、電子工学科、情報工学科、応用化学科、化学工学科、共通講座) | |
昭和55(1980)年5月 | 長岡市から移転完了(第2次移転)(機械工学科、精密工学科、土木工学科) | |
昭和56(1981)年4月 | 建築学科設置 | |
平成元(1989)年4月 | 全学科改組(機械システム工学科、電気電子工学科、情報工学科、化学システム工学科、建設学科、共通講座(共通講座は平成6年3月まで)) | |
平成6(1994)年4月 | 機能材料工学科設置 | |
平成7(1995)年4月 | 大学院工学研究科を大学院自然科学研究科博士前期課程に転換 | |
平成10(1998)年4月 | 福祉人間工学科設置 | |
平成17(2005)年4月 | 附属工学力教育センター設置 | |
平成29(2017)年4月 | 工学部の既存の7学科を改組し、工学科を設置 | |
令和5(2023)年 | 創立100周年 |
明治中期の石油事業に誘発され、石油資源に恵まれた長岡では石油採取・精製に必要な鉄工業・機械工業が勃興しました。運輸交通の要所にあり、水力による十分な電力供給もあることなどから、石油事業が衰微した後も生産品の転換等によって長岡の工業は発展しました。第一次世界大戦の直後から高等教育が拡充され、各地に高等学校や高等工業学校が新設されました。工業都市をめざす長岡市も内務省および新潟県知事に対して「意見書」を提出し、設置に必要な経費の地元負担を申し出るなど、熱意を示しました。意欲的な誘致運動が奏功し、大正9(1920)年に設置が認められ、同12(1923)年に全国で16番目の国立高等工業学校として長岡高等工業学校は設立されました。
昭和12(1937)年に日本は中国と戦争状態となり、その後、昭和16(1941)年には太平洋戦争に突入しました。戦時一色となった昭和19(1944)年3月に校名は長岡工業専門学校に改められました。学生は軍事訓練、勤労奉仕に多くの時間を割かれ、遂には学徒動員によって戦場に赴く者、工場で軍需生産に従事する者が続出し、多くの犠牲者を生む結果となりました。昭和20(1945)年8月1日の大空襲により、長岡市の8割は灰燼と化しましたが、幸いにも校舎は焼失を免れました。
昭和24(1949)年に長岡工業専門学校は、新潟大学工学部となりました。1960年代に分散立地していた各キャンパスの整備・移転構想が持ち上り、1965年2月に五十嵐地区への移転統合が決定されました。その時点で工学部は創立から40年以上が経過し、すっかり長岡市に根ざしておりました。愛着のある工学部の移転にあたって、多くの関係者や地元から反対の声も上がりましたが、約2年間をかけて五十嵐地区への移転が行われ、昭和55(1980)年5月に終了しました。移転後の発展は前ページの沿革・年表のとおりです。
100周年記念事業の柱として、みなさまからの募金を原資に、工学部の「教育研究支援基金」を創設いたします。詳しい内容は新潟大学工学部同窓会のHPをご覧ください。
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