特集 医学大運動会

町キャンパスには110年の歴史を持つ行事がある。全国的にも稀だと思うが、それは医学大運動会である。始まりは明治44年に遡るのだそうだが、その昔のことについては古今東西この方しか適任が居られない蒲原宏先生にご寄稿をいただく。主任教授として多くの運動会に参加され、代表リレーのアンカーも務められた前整形外科学教室教授の遠藤直人先生、新潟青陵大学教授を務められている元看護部長の佐藤富貴子先生、そして卒後34年になるが、元学生の髙橋美徳も寄稿させていただく。

学大運動会は学生紛争真只中の2年間とコロナ禍の2年間を除いて、雨天決行で毎年実施されてきた。医学大運動会は、学生、教室員、秘書、技官、外来・病棟ナース、隣接保育園園児が参加する一大イベントである。最高学年の学生はクラスの威信をかけて優勝を勝ち取らんとし、各部活動、各教室は何としても優勝すべくしのぎを削る。運営管理は学友会によって行われ、陸上競技部員が中心となってグラウンド整備・設営、公平な決勝審判が実施される。際どい判定にも、選手が不平不満を表すことはエチケット違反とされ、フェアプレーの精神が貫かれていたのは心地が良いものだった。これまで医学大運動会に参加してきた先輩方のお話を伺うことにしようと思う。

戦中・戦後の
新潟医科大学運動会の思い出

蒲原 宏

元日本医史学会理事長
昭和19年新潟医科大学医学専門部卒業

図1 昭和19年アルバムによる昭和16年撮影の写真
図2
図3

 太平洋戦争勃発の8ヶ月前の昭和16年4月に入学して新潟市名物の一つ新潟医科大学の運動会を体験した。80年前のこと。各医局の対抗リレー。そして各医局の派手な応援と仮装行列に驚いた。4年生は戦時学年短縮で12月卒業で出征が決定していた。医局員の数も減っていたがまだ病院前のグラウンドには人があふれていた。(図1)

 昭和17年には大量の医局員の出征で4年生が医局に配属されたが競技も仮装行列も低調となった。(図2)整形外科では教授、助教授、講師の3人だけ、医局対抗リレーはできず、学生の学年対抗と看護婦のリレーが花形だった。陸上競技部員が配属された整形外科が優勝した。(図3)

 4年生はその年の9月に6ヶ月短縮で出征。昭和18年は看護婦と学生のリレーのみで形ばかり、昭和19年はなし。4年生は6月末で授業打ち切りで陸海軍軍医学校に入校し、軍医教育を受けて後戦線参加。昭和20年は大学疎開、敗戦でなし。戦後は昭和22年に細々と復帰した。各医局も陸海軍で鍛えられた生き残りの屈強な若い医師たちがあふれるようになったので、昭和22年から年を追って運動会は対抗リレーと応援、仮装行列に競争が高揚し、昭和25年には再び新潟市の名物に復帰した。その年の9月に私は整形外科の医局を辞して会津若松市の竹田総合病院に整形外科創設のため赴任した。学年対抗、医局対抗で優勝した戦中、戦後のことが昨日のことのように蘇ってくる昨今である。

医学部・医学大運動会は
対面コミュニケーションツールです

遠藤 直人

前新潟大学大学院医歯学総合研究科
機能再建医学講座整形外科学分野教授
昭和55年新潟大学医学部卒業

 運動会と言えば、小中学校や町内の運動会を思い浮かべます。医学部・病院の運動会・・・本気か?と思う方も多いでしょう。医学大運動会は長い歴史があり、戦前から行われてきたようです。

 5月の第4土曜日に開催されます。旭町キャンパスのグラウンドで医学部(医学科)各教室はトラックを囲むようにそれぞれの場所で看板を高く掲げ、その前に桟敷あるいはテントを張ります。看板は教授やスタッフの顔をキャラクターにアレンジし、昔は手書きでその年の新人医師の大切な業務でしたが、現在はお絵描きソフトなどを駆使し上手に描いております。ちなみにこれも採点対象です。

 見どころはなんといってもマラソン、リレー、満腹競争、そして仮装(名称は変化)です。マラソンは医学部敷地周回コースなどで男子3km、女子は2km程度。号砲とともに颯爽と駆け出すものの、早々と戻ってくる方、和気あいあいの方、青息吐息でやっとのことでゴールにたどりつく者いろいろです。各科対抗リレーでは精鋭の4人メンバーチームで行われるものと、壮年チーム(4人で150歳以上)で行われるものとがあり、まさに全観衆の注目の的です。仮装も見もので、普段白衣で講義、診療をしている高名な方々が露わな(?)姿で、コミカルな劇を披露するものです。

 この運動会はおもに医学科学生が準備、当日の進行と審判を務めます。一部の学生種目に参加しますが、学生さんの働きなくして運動会開催はできません。大変ありがたいことです。

 いまどき、運動会なんて、と思うことでしょう。確かに時代遅れかもしれません。白衣姿しか見ていない医師、印象薄い講義の教員、話をしたことがない方と、この運動会を契機に「運動会での雄姿、思いもかけない脚の速さ、よくぞそこまでの仮装姿」から会話が始まり、その後の診療面での協力や実習・講義が楽しく、円滑に運ぶこともよくあることです。運動会は「コミュニケーションツール」です。コロナ禍で2020年、2021年は中止、今後はどうなるか。

ワンチームを実感する大切な場

佐藤 富貴子

元新潟大学医歯学総合病院
副病院長・看護部長
昭和54年新潟大学医療技術短期大学部卒業

 入職1年目の春、医学部大運動会という一大イベントが私たちを迎えてくれました。この大運動会の準備は難敵でしたが、入局1年目の先生方と準備に追われた日々は、楽しく懐かしい思い出として残っています。

 脳神経外科病棟に配属された私達は、応援団らしきものを結成。応援ソングはこの年のヒット曲・北島三郎の「与作」に決めました。今から思うと不思議な選曲ですが、いざ披露する段になり、笠を被ってスローテンポで踊るというなんとも場違いな応援に気が付いた次第です。ただ、応援席でやさしく見守ってくださった故植木幸明教授(写真中央の眼鏡をかけた紳士)の笑顔や先生、先輩方の声援に勇気づけられたことを覚えています。

 運動会の華である医局対抗リレーの盛り上がりは相当なものがありました。どこが優勝するか、毎年の話題でした。そして走り始めれば、敵、味方の区別なく選手全員に大声で声援を送るという、まさに大人になってからも本気で楽しめる運動会です。

 そしてもう一つの華が仮装です。数々の仮装がありましたが、私の中のナンバーワンは、元学長・荒川正昭教授が第二内科に着任した頃の仮装「西遊記」です。荒川教授が「孫悟空」に扮し、お供を引き連れて、各応援席に笑顔満開で挨拶しながらトラックを一巡し、グラウンド全体から拍手と声援がおこりました。その光景が鮮明に思い出されます。教授という立場の偉い方が、こちらに近づいてきてくださったような驚きがありました。

 医学部大運動会は、一年に一度、職種や年代を超えたワンチームを実感できる大切な場です。また、本学の文化を醸成する大切な機会の一つのように思います。COVID-19収束後の再スタートに期待を寄せています。

学生から感じた医学大運動会

髙橋 美徳

昭和61年度医学部学友会委員長
昭和62年新潟大学医学部卒業
(昭和61年5月運動会当日の撮影)

 教室色を全面に押し出した競技や仮装の数々は、実習では見られない教室の内情を垣間見られるひとときだった。この日ばかりは無礼講で、教授の方々も白衣姿の自身を忘れ、楽しまれているようだった。

 大人数のエキストラを必要とする仮装が恒例の外科学教室には、何度もかり出された。毎年ほぼ同じシナリオで設定されていたが、そのテーマは勧善懲悪や破壊と創造だったのだと思う。当時は半裸で体に色を塗って参加するどろんこレースのような感じで、子供心が湧き上がった。騎馬戦では当時の第二外科学教室の江口教授を乗せる馬となり、落とすことは決して許されない重責を負ったことを覚えている。偉い教授と肌を合わせて、純粋に楽しむことができた。

 桟敷パネル画の作成は、新入予定医局員の仕事である。国家試験発表前で医師免許がいただけるのかどうか不安な中、連日の延長描画作業であった。出来映えも採点対象なので、懸命にうち込んだ。パネル製作は新潟大学卒業生と他大学卒業生が打ち解ける良い機会であった。

 終了後の直会は教室ごとに盛大に行われた。お手伝いをした学生はそれぞれの会場を訪問し、ごちそうにあずかった。会場では先輩方に普段は聞けない質問をすることが出来、学生にとっては就職説明会のような状態で、入局先選択の足がかりであったと記憶している。

マラソン 昭和60(1985)年卒業アルバム

運動会の場で一丸となって力を発揮することにより、今では当たり前のようにいわれるチーム医療と多職種協働が実態感でき、新潟大学医学部職員としての一体感が培われていたのだと思う。
 それぞれの学部・学科にも引き継がれてきた伝統があると思う。先輩・後輩が連携・協力して目標に向かい、創り上げていく達成感を共有できる事はこの上なく幸福な経験である。コロナ禍が収束して、わが新潟大学の伝統を肴に共に酌み交わせる日が待ち遠しい。