校歌だった学生歌

広報紙「雪華」編集部

学生歌誕生の経緯を知るために新潟大学学報(以下、学報)や会議資料をひもといた結果、以下のことを確認いたしました。

校歌として募集

 学報第65号(昭和29年5月15日)591頁に「校歌応援歌設定要項」が掲載されています。「一、校歌応援歌共歌詞のみを募集し作曲は特定の専門家または(以下、略)」とあり、当初は校歌として公募されたことが伺えます。592頁には「募集要綱」の詳細が掲載されており、入選発表は「昭和二十九年六月三十日頃本学及び新聞紙上に発表する。」とあります。

学生歌として採用

 審査には少々時間を要し、同年10月29日付の第41回評議会議事録に「学生歌・応援歌について」の項目があり、「校歌100余編、応援歌400余編の応募作品のうち、(以下、略)。学生部長からそれぞれ学生歌、応援歌として採用したいこと、将来校歌として適当と認められるに至った場合は、それを校歌として採用したい旨の説明があり、(以下、略)。」と記録されています。学報第70号(同年11月1日)の632頁以降には入選作が掲載され、前段の説明に「本年五月以来広く本学の内外から募集中であった校歌応援歌(以下、略)。但し、校歌として募集したが審査委員会で審査の結果学生歌として採用することが適当(以下、略)。」とあります。


 学生歌を作詞した中村千栄子氏は当時、短大卒業直後で無名の21歳。学生歌入選を契機に詩作の道へ進み、後に童謡・合唱曲・歌曲の分野で数々の作品を残し、文化庁芸術祭優秀賞などを受賞されました(本紙第4号を参照)。

特別寄稿 『~音楽への想い~』

教育人間科学部(2006年)卒 笛人 本宮 宏美

―音楽家を志したきっかけを教えてください

生まれつき左足に障害があったため運動ができず「運動ができないなら、音楽をやろう」という一瞬の思いつきでピアノを始めました。フルートは中学校の吹奏楽部で初めて出逢い、一目惚れをしたのがきっかけです。

―大学時代はいかがでしたか

学部を超えて様々な教授・講師陣の先生方、そしてフルートの大師匠に沢山学んだ4年間でした。音楽の大切な基礎力はもちろん、演奏者としての高い意識や精神力、人間力を鍛えて頂き、とことん音楽と自分を対峙させ続けた日々でした。

―演奏の魅力はなんですか

無心になってフルートに息を吹き込む時、体と楽器が一体となって「私は今生きている」と感じます。その瞬間を目の前にいるお客様と一緒に共有できるライブという空間が、私にとって最も至福の一時です。

―どのような音楽家を目指していますか

どんなことがあっても、それでも明日を生きようとする人の心の支えになる音を目指して活動をしています。そのためにこれからも自分の音と正面から向き合い、オトノハコのメンバーとオリジナル曲の製作に力を入れていきます。

―今後の活動についてお聞かせください

今年は8月9日の日本海夕日コンサートでの出演を初め、他にも新潟県のみならず全国各地でライブが予定されています。また新潟日報でのコラム連載やCDリリース、メディア出演も引き続き継続しています。詳しくは「笛人 本宮宏美」 のホームページをご覧ください。

笛人 本宮宏美 ームページ

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