新潟大学コールアカデミーというユニークな合唱団があった。どうユニークかと言うと、教育学部音楽科学生と他学部学生、社会人により構成されており、音楽科学生にとっては授業の一部、他の人にとっては同好サークルという体制であった。

 この合唱団は昭和26年(1951)に発足(当時は新潟大学グリークラブ)したが、その前に理学部講堂(現在の西大畑、附属小中学校のキャンパス)で合唱をしていた同好グループがあり、この代表者が、音楽科の教官山田常三先生に合唱指導を依頼しに訪れた。まあ、学生だからできるいささか無鉄砲な話ではあるが、山田先生は快諾(多分)された。また、当時解散した放送合唱団や他の団体の社会人がこれに参加した。音楽科学生がどの時点でこれに参加したかは不明であるが、恐らく発足2-3年後のことだろう。出席強制ではなく、極力参加の準授業だったようだが、山田先生のご威光もあり、ほぼ全員が参加したようだ。音楽科は殆どが女性で、混声合唱ができないために、他の男性メンバーを加えての合唱授業という意味もあったと思う。

山田常三先生
久住先生のお師匠さん。「眼で指揮をする」と言わしめた独特の指導は合唱団員を魅了し、お弟子さんの集まりでは、種々の逸話が語られる。

 音楽科学生と意欲的なメンバーによる合唱のレベルは大変高く、多くの翻訳物や邦人作品と共に、テデウム、カルミナブラーナ、森の歌、レクイエム(フォーレ)、ロ短調ミサ、クリスマスオラトリオ(サンサーンス)、メサイアなど新潟では初演となる多くの作品を演奏した。山田先生の独特な雰囲気の合唱指導に魅力を感ずる団員が多く、最多時100名近いメンバーが在団していた。部分的に授業体制ではあったが、同好サークル的性格が強く、合宿をしたり、団員親睦の機会もあり、若者の集団であるから、多くのカップルが誕生した。

久住和麿先生
単独の指揮者による43年間のメサイア演奏は全国で例がない。作曲が専門で多くの作品があり、県内の多くの校歌を作曲された。

 昭和40年(1965)、山田先生が文部省に転任となり、後任の音楽科教官である久住和麿先生がコールアカデミーの指導を担当されることとなった。指導者交代期、当然ながらコールアカデミーは一時的に低迷するが、久住先生の指導が団員に浸透して行き、演奏活動が軌道に乗って行く。さらに、ヨハネ受難曲、マタイ受難曲の山田時代にはなかった大曲の演奏に成功した。これらの演奏には多額の経費を必要とする。学生と社会人によるユニークな体制がこのような活動を可能にしたと言えよう。

 久住先生は、昭和43年(1968)にメサイア(ヘンデル)を演奏された。この演奏会はこれが契機となり、コールアカデミーにより10年間継続、その後、先生が主導した新潟メサイア合唱協会に継承され、先生の御逝去の年、平成22年(2011)まで44回に亘って演奏が続けられ、新潟の音楽文化に多大に貢献した(最終年は、先生の追悼演奏会)。先生の特筆すべき業績である。

 西大畑にあった教育学部は、昭和56年(1981)に五十嵐キャンパスに移転した。これに伴い、コールアカデミーは社会人を主体とした新潟コールアカデミーと組織改変、さらに何年後かに別の団体に移行した。

 新潟大学において学生と社会人が、一方は準授業、他方は趣味的サークルと立場は異なるが、共に高いレベルの音楽を目指した合唱団の約30年にわたる活動を紹介した。大学の現状をみると、今後、このような団体が結成されることはおそらくないだろう。本稿により、古き良き時代の学生活動が記憶に留められれば幸甚である。独特の体制で多くの愛好者に合唱への夢を与えたコールアカデミーを創始、基礎を築いた山田常三先生、それを更に発展された久住和麿先生(いずれも故人)に深甚なる感謝を表したい。

新潟メサイア合唱協会会長
富山大学名誉教授(昭和46年医学部卒)
渡辺 行雄


久住先生と同期に入団、
45年間、コール、メサイアの運営を担当し先生の演奏活動を支えてきた。
合唱団きっての酒豪との評判。