戦前の旧制高等学校は、英米のCollegeを手本にしたとされ、例えば1890年代より第一高等学校(現東京大学)が全寮制を開始したことに代表されるように、全国の旧制高校と学生寮とは密接な関係にありました。寮生活には社会に役立つ人材を育成する面で、学校での勉強とは別の重要な役割(先輩・後輩あるいは文系・理系の区別なく議論し、互いに啓発・刺激し合い理解し合って人間関係を深めることなど)がありました。
1949(昭和24)年の新潟大学設置を機に、前身校である旧制新潟高校の六華寮(1952(昭和27)年より六花寮)、新潟第一師範学校(新潟市)の好風寮、新潟県長岡女子師範学校の和光寮、新潟第二師範学校(上越市(高田))の公孫寮、及び長岡高等工業学校の悠久寮が新潟大学に所属替えとなりました。1951(昭和26)年には医学部の学生寮が財団法人協和会より新潟大学へ寄附されました。第二師範学校の女子寮である桜の家(1963(昭和38)年より桜寮)は1952(昭和27)年に新潟大学に所属替えとなりました。1954(昭和29)年には新潟市二葉町三丁目(現在の中央区古町13番町)に二葉寮(女子寮)が設置されました。
六花寮、好風寮ともに老朽化のため新築が要望されていたところ、1964(昭和39)年6月16日に新潟地震が発生しました。好風寮は半壊し、使用不能となりました。同年、大学は文部省より学生寮新築の予算を獲得し、1965(昭和40年)12月には関屋地区に鉄筋コンクリート建ての学生寮(当時は新寮と呼ばれた)が完成しました。新寮には六花寮、好風寮、医学部学生寮の寮生が入居し、同時にそれぞれの旧寮は廃止されました。1968(昭和43)年3月28日より新寮の名称は六花寮となりました。
1979(昭和54)年~ 1982(昭和57)年にかけて行われた工学部、教育学部の五十嵐キャンパスへの統合移転に伴い、長岡地区の悠久寮と和光寮、高田地区の公孫寮と桜寮はいずれも閉寮しました。統合移転の間、1980(昭和55)年には五十嵐寮A棟(男子寮)、翌年の1981(昭和56年)には五十嵐寮B棟(女子寮)が完成いたしました。二葉寮は五十嵐寮B棟の新築と同時に廃止されました。これにより、新潟大学の学生寮は、六花寮、五十嵐寮A棟、B棟の三寮となりました。
関屋地区の旧六花寮は老朽化により2011(平成23)年3月末をもって閉寮しました。同年3月29日(火)、五十嵐キャンパス内に完成した新・六花寮の完成記念式典が行われました。同年4月より、学生(男・女)、大学院生、留学生も入居し、新・六花寮がスタートしました。
宿舎名 | 地 区 | 系 譜 | |
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六花寮(初代六花寮) | 新潟市 | 中央区西大畑地区 | 旧制新潟高校→新潟大学へ移管(1949年)~関屋地区への移転(1965年)まで |
六花寮(旧六花寮) | 中央区関屋地区 | 1965年12月~五十嵐地区への移転(2011年3月)まで | |
六花寮(新・六花寮) | 西区五十嵐キャンパス | 2011年4月~現在に至る | |
好風寮 | 中央区旭町地区→同市下所島 | 第一師範学校→新潟大学へ移管(1949年)~六花寮の関屋地区移転(1965年)まで | |
医学部学生寮 | 中央区旭町地区 | 1951年~六花寮の関屋地区移転(1965年)まで | |
二葉寮 | 二葉町(中央区古町13番町) | 1954年~五十嵐寮B棟完成(1981年)まで | |
五十嵐寮A棟 | 西区五十嵐キャンパス | 1980年~現在に至る | |
五十嵐寮B棟 | 西区五十嵐キャンパス | 1981年~現在に至る | |
悠久寮 | 長岡市 | 学校町 | 長岡高等工業学校~新潟大学へ移管(1949年)~工学部の五十嵐地区移転まで |
和光寮 | 東神田→同市地蔵 | 長岡女子師範学校~新潟大学へ移管(1949年)~教育学部の五十嵐地区移転まで | |
公孫寮 | 上越市 (高田) |
本城町 | 第二師範学校→新潟大学へ移管(1949年)~教育学部の五十嵐地区移転まで |
桜寮(桜の家) | 本城町 | 第二師範学校→新潟大学へ移管(1952年)~教育学部の五十嵐地区移転まで |